私のなかのLittle

今年度のアカデミー賞作品賞を受賞した『ムーンライト』を観た。
アメリカの貧困街に暮らす黒人のゲイの少年の話ということで、はじめのうちは社会派の厳しい作品なんだろうと思っていた。観ているうちにボロボロと涙が出てきて、これは私自身の物語なんだと感じた。

 自分とはまったく異なる環境で生きる、性別もセクシャリティも異なる少年の物語なのになんでそんな風に感じたのだろう。この映画を、美しい純愛映画としても観ることができるけれど、私にとってはただ「自分のままで生きることの難しさ」を描いた映画に思えた。

 主人公の少年シャロンは幼少期、身体が平均よりも小さく「Little」というあだ名をつけられている。
大人しく、しぐさが女性的だといって「おかま」と言われ、いじめられている。シングルマザーの母親は麻薬中毒、そんなどん底状態の彼を守ろうとしてくれる大人に出会う。そうして彼は、そのまま高校生になる。歩き方も変わらず、しぐさや目の表情もあまり変わっていない。それでも環境は悪化する一方で、何度もひどく傷つけられ、ついに限界を向かえる。その後月日を経て彼は「Black」として、以前とは違う姿で帰ってくる。それは誰にも「傷つけられない」であろう姿で、「Little」だったころの自分を守ってくれた人の姿だ。
 
最近の映画やドラマ、その他の表現物で、「自分らしく」とか「ありのままでいいんだよ」というメッセージを伝えているものは多い。もちろん自分らしくいることはとても良いことだ。でも、私が今生きている社会ではそれはとても難しいことだと感じるので、無責任に、強者の言葉のように響く。「ありのままで」いることができない環境にいる人、若く、まだ自我が形成されていない段階で自分を偽らなくてはいけなかった人、この主人公シャロンのような人がたくさんいると思う。そしてそれは日本だと、若い女性にとても多いように思う。
 

私が働き始めたとき、接客以外の場面(同僚や上司と話すとき)でも「口角をちゃんとあげて微笑む」よう男性の上司から言われたことがある。私は普通にしていても、少しふてくされて見える顔だから、中高生になっても「愛想よくしなさい」なんて言われることがよくあった。

男性だったらどうだっただろうか。少なくとも職場の男性は不機嫌に見える人であっても「口角を上げて微笑むように」なんて言われていなかったし、これから言われることもなさそうだ。なぜ若い女性は微笑まなくてはいけないのだろうか。女性誌の表紙や車内広告の女性がいつも微笑んでいるから?柔和で、無抵抗、常に同意する姿勢に見えるからだろうか。
なぜ『ムーンライト』のシャロンは、力強く、一見誰にも傷つけられないように見える、自分を守ってくれた人の姿を借りなければいかなかったのだろうか。

このふたつの疑問は重なっていて、そしてそこには根深いジェンダーの問題が横たわっている。それくらい「自分のままでいること」はある環境の人には難しくて、映画を観たから明日から自分らしく生きようなんて、そんな風には思えない。知らず知らずのうちに、おそらく彼女自身ではない笑顔をはりつけている若い女性を見るたびに、これがどれだけ困難な問題なのか考えてしまう。

『ムーンライト』で救われたのは、「Black」の瞳が、シャイで寂しげな「Little」のそれと少しも変わっていなかったことだ。最後には、人間の脆さと美しさを掬い取りながら、どうすれば「自分のままでいること」ができるのかをわずかに提示してくれる。この映画と同じようにシンプルな言葉で言うと、私は男性が「傷つきやすい」「vulnerable」な存在であってもいいし、女性が「力強い」「tough」な存在であっていいと思う。
そしてそのことを少しずつでも受け入れられるように、自分も社会も変わっていかなくてはいけない。