帰り道の景色が違って見えた日

私は子供の頃から本を読むのが好きだった。
でも、特に好きだった本は何かと考えても、すごく小さい頃に読んだ絵本ぐらいしか思い浮かばない。推理クイズが好きだから外国の推理小説を買ってもらったけれど、やっぱりクイズではないから面白いと思えなかった。ファンタジーの世界に憧れて、そういう本を読んだりしても、結局、自分とは遠く離れた世界の話なんだと思うといまいち夢中になれなかった……。
私は本を読んで別世界を味わうタイプではなく、単純に活字を目で追っているのが好きだったようだ。

私が初めて何度も読み返し、文章を噛み締めながら読んだ本は、坂口安吾の『堕落論』(集英社文庫)だ。高校生の頃、すごく好きだったバンドのボーカルが「バイブルだ」と言うので買った。
この文庫本には、いくつかのエッセイや小説が収録されている。当時の私にとっては、一読しただけではよく理解できないものが多かったが、それでも所々にはっとするような鋭い言葉があって、そのおかげで放り出さずに何度も読むことができた。憧れの人の「バイブル」だから、簡単に放り出すことはできなかったし……。

その中でも特に私がぐっと来たのは、「日本文化私観」というエッセイの「家について」という章である。そこにはこんな言葉があった。

「叱る母もいないし、怒る女房も子供もない。隣の人に挨拶することすら、いらない生活なのである。それでいて、家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、うしろめたさから逃げることができない。」
「叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で、誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。」

どんなに楽しく過ごした後でも、帰り道や一人の部屋では、これでいいのかという不安や、ああすればよかったという後悔にいつも悩まされる。その感覚を、こんなふうに表現できるのかと感動した。そして帰りの電車に揺られている時などに、さっき会った友達も、いま電車に乗っている人達も、私と同じように家に帰れば一人で「叱られる」のだろうかと思うと、切ないような少し安心するような気持ちになった。

安吾は別の章で、わざわざ美を意識して見なければならない有名な寺院よりも、必要性のみで作られている刑務所や工場の方が美しい建物だと言う。
彼は華々しさのない、むしろ淋しいくらいの日常を見つめ、美しさを感じ取る。彼の文章を読むと、私の見ている景色も少し違って見えてくる。
私はこの本を読んでから、目の前の景色をどう見るか、どう感じるかということを強く意識するようになった。
どこか遠くの世界に連れて行ってくれるのではなく、いま生きている日常に物語を見出す。そういうものにこれからも出合いたいし、私自身もそういうものが書けたらいいなと思う。

Writer's Profile

marue
30代会社員、実家住まい。
学生のとき、部活とサークルで打楽器やドラムを叩いていました。同じリズムをひたすらキープし続けるのが好きです。

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