“プラダを着た悪魔”-私のための映画-

あまりにメジャーな作品だから大声では言えないけれど、『プラダを着た悪魔』は“私のための映画”だ。
 説明するまでもないと思うが、本作品ではファッションに縁遠い主人公アンディが、業界の重鎮・ミランダのもとで働く中で変化する姿を描いている。
 映画の公開当時、片田舎の中学生だった私は、話の内容はともかくファッションやニューヨークといった作品の舞台設定に憧れを抱いていた。その世界観に焦がれ、繰り返し繰り返し作品を観た。
その間にも、私は高校生になり、浪人を経て都内の大学生になり、就職活動を経験した。そうして10年あまりが経った昨年4月、アンディ同様に社会に足を踏み入れることとなった。
 私は都内のベンチャー企業に就職した。
 入社して数カ月は順調だった。毎日が楽しくて、残業もなく、何より上司が私を同期以上に評価してくれることに満足していた。ところがまもなく、転機が訪れた。その上司の転勤が決まったのだ。
上司の担当していた顧客を引き継ぐことになった私に、ありえない量の仕事が舞い込んできた。残業が増えるどころか、社内でいちばん遅くに会社を後にすることが当たり前になった。加えて、新しく来た上司とも折が合わなかった。
私が上司と相いれない一方、同期は一足先に昇進が決まった。

 私は職場の先輩や学生時代の友達に愚痴をこぼした。仕事に時間も体力も費やしているのに評価されない。定時で帰りながらも評価を受ける同期や私を認めない上司が憎たらしい。
アンディは同僚のナイジェルのもとに愚痴をこぼしに行って、叱責を受けることで自分の過ちに気が付くが、幸か不幸か私の周囲の人々は不満を受け入れてくれていた。
 
きっかけは、直属の上司と先輩との言い合いに立ち会ったことにあった。先輩は会社の待遇に不満があった。自分が受ける待遇以上に会社の求めに応じることはできないという主張だった。
上司は上司で、彼女のそんな態度が気に食わず、無理に求めに応えさせようとしていた。二人とも主観だけで話していた。いつまで経っても交わることがなく、終わりのないやりとり。
そこに自分の姿が重なった。私も二人と同じように、自分の立場からしか物事を見ていなかったのだ。
 私は私だけが大変な目にあっていて、自分だけが認められず、悪いのは私以外の誰かだと思い込んでいた。実際、そんなことはなかった。みんなそれぞれ、同じだけの仕事を抱えて、同じだけ大変な思いをしていたのだ。
できて当たり前のことに、私は過剰に評価を求めていた。

自分の過ちに気付いた私は、現状を受け入れることに決めた。敬遠していたハイファッションに身を包み、ミランダが欲するものを先回りして与えたアンディのように。すると、遅くまで残業しなければならない原因が仕事量ではなく私自身にあることに気付いた。
私ではなく同期が昇進した理由にもすっと納得がいった。今まで見えなかったものが、急に見え始めた。

『プラダを着た悪魔』のラスト、はじめてアンディが自らの意思によって選択を行う場面がある。それまで就職するのも、私生活より仕事を優先させるのも、出世の道を進むのも、
彼女にしてみればそれ以外の選択肢はなく、自らの決断によるものではなかった。自分の意思とは関係なく手に入れたものだった。ところがミランダにしてみればそれは、理由が何であろうと、選択した以上は彼女自身の決断なのだ。
ミランダの言葉でその事実に気が付いたアンディは、はじめて自らの意思のもと選択を行い、未来をつかみ取っている。こうして、彼女は本当の意味で孵化を遂げた。

正直、私自身は今はまだ、選択肢が見えない中で道を進んでいるような状態だ。それでも入社から1年が経ったつい先日、私にも昇進の機会が訪れた。
昇進が全てでないことはわかっているけれど、他人から見て何かが変わったということだろう。次に私がやるべきことは、自分の意思に合致する選択を見つけること。そうして明日にでも、本当に孵化する瞬間を迎えたいと思う。

中学生だった当時から今も、そしてこれからも、『プラダを着た悪魔』はいつだって“私のための映画”なのだ。

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